ガブリエル・バンサンさんの『アンジュール』を刊行後、「今江祥智さんの講演会でこの絵本を紹介されて…」という愛読者カードが多く寄せられた。今江祥智先生は、作家・翻訳家として、第一線で子どもの本の世界を牽引しておられた。『アンジュール』に注目していただいたことがご縁で、京都のご自宅に伺うことになった。それが、今江先生との出会いだった。まだ、私が営業の駆け出しのころであった。出版を検討中だったバンサンさんの『L’OEUF(たまご)』という原書をお見せすると、先生は、販売の責任を持つからこの絵本を出すべきだと言われた。これは『アンジュール』同様、言葉のない絵本で、バンサンさんの圧倒的なデッサン力が光る作品だったが、荒野に現れた巨大な卵をめぐり展開される独特のストーリーが広く読者の共感を呼ぶか、編集部では懸念していた。しかし、先生の言葉に背中を押され、出版を決めた。その後、先生の講演会に伺った私は、大阪弁・京都弁・名古屋弁を交えたお話にすっかり魅了された。幾度となく講演会に通ううち、親しくお付き合いをさせていただくようになった。
ある講演会で取りあげられた1963年の絵本『ちょうちょむすび』は、衝撃的だった。文は今江先生、絵は和田誠先生。ヒョウなのにヒゲの生えないペポネが主人公の物語は、出版から時をへてもあたたかく、ユーモアに満ち、お洒落で、みずみずしかった。1963年といえば私はまだ小学4年生。運動場を駆けずり回り、先生に叱られ廊下に立たされていた。そんな時期に、すでにこのような絵本を作っておられたとは…。この絵本は限定500部の私家版で一般には流通していなかったので、講演会のあと、先生に出版を申し出た。私家版は活版で印刷されていた。私は今の電子写植とは違う手作りの雰囲気にこだわって、なんとか再現しようと考えた。たまたま京都の印刷会社に活字が残されていたので、活字を使って印刷してからオフセット印刷した。完成後先生は、復刊のお礼にと、私家版500部のうちの一冊をくださった。今も大切に手元に置いている。
先生の執筆50周年にあたり『子どもの本の海で泳いで』を企画した。先生のこれまでの軌跡をたどり、ご自身や様々な関係者のエッセイや鼎談で構成する、活動の集大成である。私は作品の舞台となった場所に同行し、先生の姿をカメラに収めた。『ぼんぼん』では、小学校時代を過ごされた大阪の長堀を訪れた。疎開で離れてから初めてとなる長堀を一緒に散策すると、当時の面影はなく、先生のため息が漏れた。末吉橋にさしかかると、石造りの欄干を触りながら、空襲の時、橋まで逃げてきたことを話された。主人公が中学の教師となった『牧歌』では、教鞭をとっておられた名古屋の桜丘中学校を訪れた。校舎は建て替えられていたが、校長先生が当時のアルバムを見せてくださった。文芸部の顧問をされていた、20代の若かりし先生の姿があった。原稿執筆の後半、先生の筆がとまりそうになることがあった。出会いの日から、バンサンさんの『ナビル』や『ヴァイオリニスト』の出版など、先生は幾度となく私の背中を押してくださったが、今度は私が押す番だった。こうして、『子どもの本の海で泳いで』は完成した。
先生との最後の仕事となったのは、絵本『あのこ』である。戦時中の疎開地の村を舞台に、「あのこ」と呼ばれる少女と村の少年の出会いと別れを綴った傑作だが、他社から刊行後、絶版になっていた。先生からの熱望もあり、復刊を決めた。改訂版が数回出されていたが、絵の宇野亜喜良先生は、今までとは違う絵本にしたいと考えられた。そして提案されたのが、黒い紙に白いインクで印刷することだった。不安はあったが、印刷会社にテストを依頼した。印刷データを反転させ、黒い紙に白いインクで二度刷りして黒い線を出した。テストは幻想的な仕上がりとなり、宇野先生は絶賛。「この方向で今江先生を説得してほしい」と言われた。そこで京都に向かい、テストをお見せした。「素敵だね」という言葉をいただいた時は、ほっとした。そして2015年1月、今江先生の誕生日に刊行した。しかしそれから2か月後の3月、先生は帰らぬ人となられた。
人は幾度となく悩んだり、壁に突き当たったりする。そんな時、誰かに背中を押してもらうと、一歩、前に進めることがある。これからは若い人の背中を、今江先生のように押してあげることができればと思っている。
References & Thanks to
1
7月30日公開
時代や国境を超えて多くの人に愛され続けている絵本『アンジュール』などを出版するにBL出版の落合さんが、著者のガブリエル・バンサンとの出会いを振り返ります。
2
10月20日公開
絵本作家・翻訳家の今江祥智(いまえよしとも)さん。バンサンの『アンジュール』を通じて出会い、BL出版から数々の名作が生まれました。落合さん自身も今江先生の言葉に何度も励まされた経験を心に留めています。
3
12月1日公開
フランス、モンマルトルを拠点に、世界の街角で目にしたものを絵本に描く市川里美さん。サハラ砂漠、アンデス、プエルトリコ、市川さんの居る場所には子どもたちの夢があり、冒険があり、優しさがあふれています。