Inoue Kotori

イラストレーター・絵本作家

フリーのイラストレーターとして、各メディアでイラストを手がける。絵本作品に、『わたしドーナツこ』(ひさかたチャイルド)、『ちいさなぬま』(講談社)、『かきたいな かきたいな』(アリス館)、『まちの ひろばの どうぶつたち』(あかね書房)、『てがみが ほしい みつあみちゃん』(チャイルド本社)、『やまと うみの ゼリー』(小学館)がある。

方向音痴は散歩する

4わたしドーナツこ

なつこが家にやって来た

2010年の年末、私の初めての絵本『わたしドーナツこ』の見本が届いた。

ある失敗を機に、「目標を持つのはもうやめよう。これからは、目的地のない散歩をするようにやって行こう」と決めた方向音痴の私は、いつの間にかイラストレーターの仕事をするようになり、幸運にも絵本を出版してもらえることになったのだ。

色校正で、何度も確認していたものの、いざ製本されると、全く別物に見えた。こんなに立派にしてもらえて、なつこは幸せだな、と思った。成人式で、着付けや化粧をしてもらった娘を見た親は、こんな気持ちなのだろうか?

そのレモン色の表紙を、部屋に飾っては、何だか照れくさくなって本棚にしまってみたり、本棚にしまったらしまったで、この本の隣に置くのはあまりに恐縮じゃないか?いや、でもせっかくだから置こうか?やっぱりなつこが緊張したら可哀想か?などと、そんなことにだいぶ時間を費やした。

少し何かが違っていたら

思い返せば、どん底な部屋の中で「ドンゾコドン!」という下らないかけ声を思いついてから、7年が経っていた。あの人の一言が無ければ…、あの人に会わせてくれたあの人がいなかったら…、その人に会わせてくれたあの人がいなかったら…。遡ればきりがなくて、少し怖くなった。少しでも何かが違っていたら、この本は今ここにないのだ。

ふと、子供の頃の母との会話を思い出した。小学校の入学式を、目前に控えたある日のことだった。

「お母さんね、本当は、お父さんの他に結婚したい人がいたの。でも、あなたが生まれたんだから、よかったと思うことにしてるの」

母は、私に向かって、そんな台詞じみたことを言った。娘なら分かってくれると思っていたのか、まだ子供だから何も分からないと思っていたのか、それともちょっとした暇つぶしなのか、真意は分からない。両親の不仲については、十二分に把握していた私にとっても、その発言は、なかなかにセンセーショナルなものだった。

「じゃあ、もし そのひとと けっこんしていたら、わたしは うまれていなかったってこと?」
「そうよ。男の子が生まれていたかもしれないし、女の子だとしても、違う子になっていたわ」

“わたしは おとこのこに なっていたのかな…?あ、ちがう。わたしが、うまれないってことは、わたしは おとこのこには ならなくて…あれ?それじゃあ、わたしはどうなっちゃうの?”当時の私は混乱して、ギャンギャン泣きじゃくって過呼吸を起こした。思い出すと、今でも頭がクラクラする。

少し何かが違っていたら、私はいなかったし、少し何かが違っていたら、この本はなかった。人も本も一緒だ。そう思うと、なつこのことが一層愛おしくなって、本になってよかったと、心底思った。

なつこの新しい友達

年が明けてしばらくすると、『わたしドーナツこ』は無事発売となり、なつこは書店に並び始めた。書店に入っては、なつこを探すのが楽しみだった。平積みや面出しになっていると、やっぱり嬉しかったし、ポップを付けてもらっていると、さらに嬉しかった。内気ななつこのことだから、さぞかし緊張しているだろうと思って、見つける度に、「がんばれ、がんばれ!」と、心の中で励ました。

発売されてしばらく経った頃、子供の頃“ドーナツ”というあだ名だったという人から、メールをもらった。「自分の話みたいで、嬉しかった」と言ってくれた。なつこに新しい友達が出来たようで、私も嬉しかった。内気ななつこだからこそ、友達になれる人がいるはずだ。そういう人たちや、そういう子供たちに、なつこが出会えるといいな、と思った。

なつこと運命

『わたしドーナツこ』は、名前がテーマのお話だ。ドーナツ屋のひとり娘“どうなつこ”が、自分のおかしな名前に悩むお話だ。私は“名前”というものは、自分ではどうすることも出来ない運命のようなものだと思っている。ここでいう“運命”は、占い的な意味ではなくて、自分で変えることが出来ないのに、どうしても今そこにある現実、という意味だ。例えば、人見知りだったり、算数が苦手だったりするのは、いつか克服出来るかもしれないし、克服は出来ないまでも、変えられる可能性があるものだ。

でも、名前は違う。自分で決めたわけでもないのに、いきなりそこにある。名前だけではない。自分の家も、両親も、顔も、身体も、多くの場合は学校も、先生も、クラスも、クラスメイトも、いきなりそこにある。大袈裟に聞こえるだろうか?でも子供の頃は、自分自身に関わることなのに、自分ではどうにもならないことが、大人になってからよりもずっと多いし、おまけに大きく感じるものだ。もちろん、何の問題もなければそれが何よりだけど、少なくとも、子供時代の私はそうは思わなかった。

「子供の頃はよかった」なんてよく聞くけれど、本当にそうだろうか?ちなみに私は、あんなに大変だった頃にちっとも戻りたくない。「そんなの信じられない!」と思う人もいるだろう。でもそれは本当のことだし、昔の私に似ている子供たちも、少なからずいるはずだ。

私は、この物語が、今大変な現実の中にいる小さな人たちに寄り添うことが出来るようにと、願いを込めて書いた。

物語の結末は、見方によっては、何の非もない二人が、正しくない周囲に白旗を揚げたようにも見えるかもしれない。でも、そうではない。今大変な現実の中にいるものは、正しさを追求することとは別に、その現実と付き合っていかなくてはならないのだ(大人になれば、それを捨てる選択も出来るけれど、子供の頃にそれをすることは、とても難しい)。正しくないことを、ただ正しくないと主張することに、あまり効果はない。それは、その正しくなさ加減に、残念ながら関係もない。正しさだけを追求出来るのは、当事者ではないのだ。

二人の主人公が最後に放った一言に、どうしても今そこにある現実と付き合っていく、二人の勇気と覚悟を込めた。付き合っていくということは、屈服することとも、なかったことにすることとも違う。変えられない何かの周りにある、変えられる何かを変えていくために、自分の手と足と知恵を使っていくことなのだ。

散歩の続き

打ち上げの席で、U編集長は、「これはいい本だよ。まぁ、こういう本はあまり売れないけどね」と言って、あっけらかんと笑った。つくづく、「この人は本当に信頼できる人だなぁ!」と思った。

その時はまだ、自分がまた絵本を作れるとは思っていなかった。一生の思い出というか、少し早いけれど、冥土の土産が出来たと思っていた。

ところがこの少し後、私は新しいお話を作り始めるのである。そろそろ戻ろうかな、と思った散歩道の途中で、声をかけてくれる人がいたのだ。私は嬉しくなって、そのままその道を歩いてみることにした。


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「わたし ほんとうに ドーナツになっちゃった!!」

本当はドーナツが大好き。でも「どう なつこ」という名前をからかわれるのがこわくて、ゆううつな日々を送る女の子が学校で出会ったのは…。

井上コトリさんのデビュー作『わたしドーナツこ』は、ドーナツが主役?の一風変わったお話です。

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方向音痴は散歩する

1

6月20日公開

私が絵本作家になるまで

「目標を持つのはもうやめよう」。目的地のない散歩に出ることをぼんやりと決意した井上コトリさん。方向音痴だからこそできるそんな気まぐれな散歩が、とても素敵な場所にコトリさんを導いてくれました。

2

7月19日公開

初めての絵本とその前の絵本

出版社の編集長からのアドバイスをきっかけに絵本をかいてみることにした井上コトリさん。記念すべき初めての絵本『わたしドーナツこ』が生まれるまでには、絵本作家になるための大切なことに気づかせてくれた「その前の」絵本の存在がありました。2冊の絵本の誕生秘話。

3

8月23日公開

わたしドーナツ+こ

『わたしドーナツ』から『わたしドーナツこ』へと名前を変えた初めての絵本。タイトルから装丁まで、出版社やデザイナーの方々と一緒に試行錯誤を繰り返しながらだんだん「なつこらしい」本に仕上がっていきました。それは井上コトリさんにとって魔法のような体験となりました。

4

9月20日公開

わたしドーナツこ

いよいよ出版された『わたしドーナツこ』。コトリさんの手元を離れて、読者や周りの人たちから好意的な反響が寄せられました。コトリさん自身も、自らの人生と『わたしドーナツこ』を照らし合わせて、あらためてこの絵本の意味を考えます。

5

10月18日公開

ふたつの卵

絵本作家としてのデビューを果たした井上コトリさん。そこですべての運の貯金を使い果たしたかのように思えたけど、すぐに新しいふたつの出会いがやってきました。料理雑誌の挿絵の仕事と、絵本2作目の話。ふたつの卵が育まれていたのです。

6

11月15日公開

ふたつの卵は孵るのか?

料理雑誌のイラストと新しい絵本。ふたつの卵を抱えた井上コトリさん。2作目の絵本の企画がなかなか通らず、ついに再び「どん底」に。そこで聞こえてきたのは、いつかの自分の言葉とお世話になったU編集長の言葉。その声を頼りに『ちいさなぬま』が完成しました。