大学卒業後、思いがけずミュージアムの館長となった福田明伸さん。アートとビジネスの間で試行錯誤しつつも、『SAMミュージアム』の運営がようやく軌道に乗りはじめた頃…。
天保山現代館のオリジナルポストカード
普段通りの日常があって初めて人々は幸せを感じ、またその幸せな日常が永遠に続くものと錯覚してしまいます。 1995年1月17日は、正に昨日までの何気ない日常を覆してしまう日となりました。
その日、阪神・淡路地方を明け方に襲った大地震は、高速道路をなぎ倒し、ライフラインを麻痺させ、住み慣れた街並みをまったく別の姿に変えてしまったのです。
震災の影響を大きく受けた1995年度の神戸市の観光人込客数
美術館やミュージアムと言っても、所詮は娯楽施設。あくまで平穏な日常の余暇を過ごす空間です。それが一変、阪神・淡路大震災によって非常事態に陥った大阪や神戸では、もはや日常に平穏はなく、余暇を過ごすどころではなかったことは想像に難くありません。
震災が起こるまでは、関西では大阪を中心に観光で経済を盛り上げる機運があり、天保山の海遊館を筆頭に様々な施設が集客を競っていたのですが、この日を境に、閉館・廃業する施設が続出していきました。 私たちのSAMミュージアムも、平日の来場者が一日に一桁台という日が続き、あっという間に運営が立ちいかなくなりました。
その危機的状況を一転させるために、私たちが考えたのはミュージアムの移転計画でした。
その移転先の施設こそが、後に「天保山現代館」を名乗ることになる美術館です。「アートをもっと身近に、楽しいものに!」をテーマに、アートとテクノロジーを融合したエンターテイメント・ミュージアムでした。 客観的に見ても、このようなコンセプトの施設は今の時代にこそふさわしく、まだITという言葉さえなかった当時としては非常に風変わりで珍しいものでした。
当時のSAMミュージアムは港区の目抜き通りにありました。一方、父の不動産会社が所有する不良物件が海遊館近くの天保山にあり、当初はSAMミュージアムに収容しきれない作品の受け皿として、たまたま天保山の不良物件が該当した迄の話でした。その物件は、SAMミュージアムの開館1年目のリニューアルに際して導入した作品群の倉庫という位置づけだったのです。
ところが震災の影響で客足が遠のく中、一等地にあるSAMミュージアムは、中身の展示物さえ搬出すれば、高い家賃で賃借させる不動産物件へと変貌できるわけです。
そんな実益を兼ねた経緯もあり、まだ震災の傷跡が癒えない1996年5月、SAMミュージアムは「天保山現代館」として移転リニューアルOPENしたのです(苦笑)。
天保山現代館ショップギャラリーの企画展の様子
デザイナーの駒形克己さんは1997年に現代館で作品展を開催
SAMミュージアムの主要展示はトリックアート(だまし絵)がテーマでしたが、移転先は残念ながら建物や空間がそれを引き立たせているとは言えませんでした。
そこで、天保山現代館では、空間そのものがアートを楽しむ装置として捉え直し、倉庫(不良物件ですが…)の特徴である吹抜けやトップライトを活かした、 最小限のリノベーションによる構想が思い浮かびました。
私は後に建築の会社を営むことになるのですが(編集部注:KAMAKULANIのスポンサーであるフクダ・ロングライフデザイン)、この頃から、良くも悪しくも建築がヒトやモノに与える影響を意識し始めていたのだと思います。そして、その具現化のために、まだ見たことのないようなアートとの出会いを求め、世界中からセレクションするところからスタートしました。
「窮すれば変ず、変ずれば通ず」という中国古典(易経)の言葉があります。
~事態がどん詰まりの状態にまで進むと、そこで必ず情勢の変化が起こり、変化が起こると、そこからまた新しい展開が始まる~
このように解釈すれば良いのでしょうか?
「SAMミュージアム」から「天保山現代館」へ…同じ港区内での移転構想は、今思い返せばこの言葉通りの展開だったと言えるかもしれません。
あともう少し、このアートとビジネスの世界で頑張らねば…という葛藤がある一方で、どうせなら日本中どこにも無いようなアートとエンターテイメントを融合したミュージアムを誕生させよう!という希望も抱いていました。
残された資金のことを考えると、私に与えられた猶予は1年間。ここから、何のお手本もない前人未到の、それでいて新しい発見の毎日が始まるのでした。
Comment from the Curator
天保山現代館に移転したときのイメージは、SAMミュージアムから一変してスタイリッシュになったような記憶があります。その頃「大アート展」などのアートと名の付く展示が盛んに催しされていました。
(それから3~5年後までの短期間ですが)
作品のセレクト、交渉、運搬、設置、集客、全てのコトを全く経験のない福田さんが手探りでされたのだと想像するとかなりインパクトを感じて、「20代の館長が運営する美術館」っていう見出しで集客ができなかったのか?っと思ってしまいます。若さや艶のある感覚で作った空間は、今見るとどんな感想が出るだろう。
当時の作品展示に参加されていた作家達を少し追って検索してみたりしました。
おもしろいモノを作り続けている方をたくさん発見して嬉しくなりました。
2015.12.16.wed
References & Thanks to
1
8月31日公開
前職は私設ミュージアムの館長という特異な経歴を持つ住宅工務店の福田さん。アートとビジネスの間で揺れた20代の日々と、天保山でかつて一世を風靡した『天保山現代館』と前身の『SAMミュージアム』の歴史を振り返ります。
2
10月27日公開
大学卒業後、思いがけずミュージアムの館長となった福田明伸さん。アートとビジネスの間で試行錯誤しつつも、『SAMミュージアム』の運営がようやく軌道に乗りはじめた頃…、阪神・淡路大震災をきっかけに転機が訪れます。
3
11月24日公開
SAMミュージアムから天保山現代館へ。まったく新しいアート体験を模索した福田館長(当時27歳)が、エンターテイメントとアートが融合したまったく新しい体験型美術館をつくるために、世界中をリサーチして回りました。