Fukuda Akinobu

フクダ・ロングライフデザイン 代表

大阪福島の工務店フクダ・ロングライフデザインの代表。かつて関西の現代アート界に一石を投じた私設美術館「天保山現代館」の館長を務めた経験から、従来の工務店にはなかったアートな視点で建築と向き合う。

美術館の記録と記憶

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天保山

てんぽうざん

かつて『SAMミュージアム(後に天保山現代館に移設)』があった大阪のベイエリア。『海遊館』や『大阪文化館・天保山(旧・サントリーミュージアム)』など、文化施設で賑わう大阪の代表的な観光スポットのひとつ。大阪港に面した埋立地区だが、その歴史は古く、江戸時代末期に安治川と大阪市中を結ぶ航路を作るために行われた浚渫工事によって生まれたと言われている。※SAMミュージアムは「朝潮橋」駅下車徒歩10分

1SAMミュージアム(大阪ベイエリア)

社会人1年生の美術館長

写真提供:http://www.solmare.com/

大学は理工学部に所属し、専攻は建築学科。
父が工務店を経営していたこともあり、幼い頃から住宅現場の掃除を手伝ったり大工さんと話したりする機会の多かった私にとって、建築の道に進むのは何の変哲もないことでした。
私は2人兄弟+2人姉妹の、当時でも大家族に育ちましたが、なぜだか私以外の弟・妹たちはモノづくりに興味がなく、幼い頃から長男の宿命として既に父親の跡継ぎを意識していたのだと思います。

ところが、4年間の学士課程では物足りず(取得できずといった方が正確かもしれませんが…)、南カリフォルニアの建築大学への留学を直前に控えたまさにその真っ只中、そのオファーはありました。

「新設ミュージアムの館長を引き継いで欲しい!」

この突拍子もない話を私に持ちかけたのは、他でもない父でした。工務店を継いでくれということなら話もわかりますが、まさかミュージアムの館長のオファーを受けるとは…。

当時父は本業とは別に私設のミュージアムを開設していたのですが、共に頑張ってきた初代の館長が過労でリタイアしてしまったというのです。そこで困り果てた父がまだ進路の定まらない私に白羽の矢を立てた、という経緯は想像に難くありませんでした。まあ、オファーなんて言うと聞こえは良いですが、要するに父から泣きつかれた訳です。

しかし長男の性(さが)はこんな時に不利に働きます(笑)。
自分の進路を変更する決断をするのに、それほど時間を要しなかったと記憶しています。そんなわけで、3月に大学を卒業したばかりの青二才が、私設とはいえミュージアムの運営を任させることになりました。

新生『SAMミュージアム』

トロンプルイユ(だまし絵)作品

私が館長に就任したのは大阪ベイエリアにあった『SAMミュージアム』。私設ミュージアムですから、設備投資を回収して、日々の運営のための経費を捻出しなければなりません。入館料と、カフェやミュージアムショップでの売上がその原資となる訳ですが、ビジネスの基本の「キ」の字も知らない若造がうまくやれる筈がありません。

10名程いた正社員スタッフの運命が大学を出たての若い館長に委ねられる訳ですから、私以上に現場は不安だったことでしょう。今でこそ、私も経営者としてのキャリアを積み、そのような同情が沸きますが、まだ20代だった私に人の人生を思いやれるほどの心の余裕はありませんでした。ただひたすらアートやエンターテイメント、集客や経営のことを学び、吸収することで精一杯だったのです。

しかしそんな『SAMミュージアム』に好機が巡ってきます。
メインの展示が「だまし絵」という話題性が受け、新聞や雑誌、テレビなどのあらゆるメディアにこぞって取り上げられたのです。その効果は、週末になると周辺の道路が渋滞して入場制限が必要なほどでした。そして大阪市の観光協会からの支援もあり、瞬く間に「海遊館(天保山の代名詞とも言える水族館)」と並んで大阪の新しい観光資源として位置づけられるまでになりました。その結果、日曜日だけでも500人超の入場者を集め、オープン初年度には年間5万人近くの方が訪れる程に成長しました。

アートとビジネスのはざまで

しかし、世間はそんなに甘くありません。それだけ注目を集めれば様々なトラブルも発生します。
まず、大人1,200円の入場料が展示内容が見合わないというクレームが度々発生し返金を迫られました。展示作品が常設のだまし絵のみということもあり、館内アンケートでは心ない罵声を浴びせられることも度々でした。この時流に乗った「だまし絵ミュージアム」はミニ・テーマパーク並の集客を誇った一方で、ビジネス用語で言うところの「顧客満足度」がとても低かった訳です。

開館1周年を迎えるにあたり、私は常設展示の一部を縮小し、新たに企画展示用スペースを設けるリニューアルに踏み出しました。その間もメディアの露出効果で集客は衰え知らずでしたが、芸術的評価の低い職場で働くスタッフのモチベーションは確実に低下していました。

そこで私は、無名でもいいからおもしろい作品を作っている国内の作家や、時には海外のアーティストなどにも声を掛け、当時としては先端的だった視覚トリック(イリュージョン)や参加型(インタラクティブ)の作品群を収集し始めました。『SAMミュージアム』は、大衆受けする「だまし絵ミュージアム」から、大阪発のアートが生まれる場として形を変えていったのです。

館長の立場としては、本当に少ない予算の企画でいかに話題性の高い作品を集めるか、どれだけお客さんを動員できるか、という課題を常に抱えていました。ある時は、館長自ら関東一円の作家をレンタルトラックで訪ね、作品を回収して美術運搬の費用を節約したりしたものです。今思えば、携帯電話もない時代に、よくやったと我ながら感心します。

また、入場者数を減らさない為にも、大阪の観光施設として扱ってもらえるよう大手旅行会社の企画室に売り込んだり、地方の新聞社やテレビ局を回ってプロモーション活動をしたりしたものです。
それらの営業活動のなかで痛感したのは、アートと集客ビジネスの両立の難しさです。まして、それがゴッホやルノアールのような知名度がまったく無い無名作家の作品で構成される現代アートのミュージアムともなれば、推して知るべしです。

しかし『SAMミュージアム』は、企画展の開催やプロモーション活動の地道な努力もあって、開館2年目も何とか入場者数を維持することができました。

阪神・淡路大震災

震災で倒壊した関西の街並み(写真提供:阪神・淡路大震災「1.17の記録」)

1995年1月17日の朝方、私は大きな揺れで目を覚ましました。

死者6,434人、住宅被害64万戸の大災害をもたらした、あの「阪神・淡路大震災」です。当時私はまだ独身で、大阪市内の実家に住んでいたのが幸いし、家族に被害はありませんでした。私が『SAMミュージアム』の館長となって3年目のことです。それまで何とか順調にミュージアムの運営を続けてきましたが、この日を境に状況が一変したのでした…。

Comment from the Curator

フクダ・ロングライフデザイン提供の「KAMAKULANI」がついにローチン。
最初のオーサーとして、どうしても福田明伸氏のお話をお聞きしたかったのです。
きっとフクダ・ロングライフデザインのお客様の目に留まるコトも多いだろうから(皆様が1番気になる人物かと思いまして。笑!)。
現在ではフクダ・ロングライフデザインの営業企画チーフを務める私ですが、以前は「天保山現代館」(SAMミュージアムの後身の美術館)で福田館長の元で働いていました。
SAMの時代は私はまだ学生で、お客さんとして訪れて長い時間駐車場待ちをしたことを覚えています。ミュージアムの印象は、本文の内容に洩れることなく「入場料が高いな、、」でした。でもバブル期ということもあり、仕掛ける側も仕掛けられる側もなんでも楽しめる時代でした。今、振り返ればすべてがお祭だったように感じます。
震災後、私は「天保山現代館」からスタッフとして関わることになりましたけど、今回の経緯は全く知らない事ばかりで驚きました。
若き経営者が震災とどんな風に向き合い、どのような決断をして次に進む方向を見つけ、やがて「天保山現代館」にたどり着いたのか、続きのお話が今からとても待ち遠しいです。

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美術館の記録と記憶

1

8月31日公開

SAMミュージアム(大阪ベイエリア)

前職は私設ミュージアムの館長という特異な経歴を持つ住宅工務店の福田さん。アートとビジネスの間で揺れた20代の日々と、天保山でかつて一世を風靡した『天保山現代館』と前身の『SAMミュージアム』の歴史を振り返ります。

2

10月27日公開

SAMミュージアムから天保山現代館へ

大学卒業後、思いがけずミュージアムの館長となった福田明伸さん。アートとビジネスの間で試行錯誤しつつも、『SAMミュージアム』の運営がようやく軌道に乗りはじめた頃…、阪神・淡路大震災をきっかけに転機が訪れます。

3

11月24日公開

天保山現代館 – 体験型アー...

SAMミュージアムから天保山現代館へ。まったく新しいアート体験を模索した福田館長(当時27歳)が、エンターテイメントとアートが融合したまったく新しい体験型美術館をつくるために、世界中をリサーチして回りました。

4

12月29日公開

天保山現代館の軌跡

かつて大阪の天保山にあった私設美術館「天保山現代館」。その記録と記憶を辿る連載の最終回では、元館長の福田さんが個性的で印象深い展示の数々の軌跡を辿ります。